新思潮No.126 2014年5月号②
-神戸研修句会(2013年11月23日) 1―  (作者未知の時点で)

合評会司会・山崎夫美子

(夫美子) それでは私の方で司会をさせていただきます。事前に互選による5句選出、うち1句は秀句指定でお願いしました。
   ※秀句推薦者  ・佳作推薦者
まな板の窪み ルサンチマンの詩(うた)古谷 恭一
・宣子・洋・繁夫・一葉・俊介・かおり・嬉久子 (一葉) まな板って言うのは、365日向かう日常的なもので、特に女性にはそうです。まな板に向い、その日の心理状態にもよりますが、トントントンと進んで〝窪み〟にきた時に、ルサンチマンと発想された。ルサンチマンを辞書で引くと、弱いものの怒り、憎悪とあって、そういった感情を詩にしたものと理解し、川柳的と思っていただきました。
 
(宣子) まな板は、毎日台所に立つ時のトントントンという幸せ感の方が多いのではないかと思います。それを窪み、ルサンチマンの詩というと暗く、現代の世情を表していると考えさせられました。日頃の複雑な感情が鬱積しているような感じがあって、その詩で自分の思いを表現しているのに惹かれました。
 
(洋) 80歳過ぎて、まな板の窪みを思うと、貧しかった少年時代の母親の涙も、僕らに見せたくなかった父親の涙も沁みていると思います。何故ならば、父親は目が不自由で、僕を育てるのにお袋はどれだけ苦労したか、まな板に屈折した心をどれだけ隠していたかと。この句は実に作者を知る楽しみがあります。
 
(かおり) 皆さんがおっしゃったような、ご自身の無力を痛感しているような仕立てだと思いました。屈折した感情とか、ルサンチマンと弱者を象徴した言葉を使っている。注目したのは、まな板が女性的であるということと、ルサンチマンという言葉が哲学的で、どちらかといえば男性的なものを意識させる、それを関連づけて句にしている。
 女性としての性を毎日送りながら、視線はきちんとしたものを持っているというナルシチズムも感じさせる。まな板とルサンチマンの取り合わせが非常にいいと思っていただきました。
 
(夫美子) この二つの取り合わせがいいと思われた方と、逆にこの関連性が違うのではと思う方があればお願いします。眞里子さんどうですか。
 
(眞里子) 聞きながら、とても納得しました。単純にまな板の上というのは生きたもの、命を刻んで食物に変える場所、その窪みとは、それをたくさんしてきた行為、それが葬り去った命たちの遺恨と言うか、怨念というか、そういうことを詠っているとしたら怖いと思いましたが、皆さんの鑑賞を聞きながら、咽喉ごしよく通っていくものもありました。
 今、かおりさんの意見を聞いていて、すごく納得した次第です。抜かずにすみませんでした。
 
(夫美子) 寿界さん、採られなかったですが。
 
(寿界) 句は悪くないです。ただね、少し大袈裟だと思っただけなんです。私の年代で言うと、これはニーチェの言葉ですが、ルサンチマンの詩、憎悪、特に復讐という意味が頭に残っています。僕は逆に女性にお聞きしたいのですが、まな板にコンコンコンと毎日やっていて、窪みが出来て、それは亭主に対する憎しみなんですか。(笑)
 聞きたくなるんですよ。要するに悪い句とは言わないですし、いい句だと思っていますが、ただ、採らなかった一つの理由は、男側からいうと「ここまで言わんでもええやろう」という気持ちなんです。
 
(夫美子) 採られました繁夫さん、まとめていただけますか。
 
(繁夫) 短詩を読む場合は、省略された片言の文学的なものですから、こちらから作品に寄り添わなければいかんと思うんです。散文の場合は、ああなって、こうなってと全部入ってくるが、五七五の場合は、片言の文学といわれるように、鑑賞者が寄り添うていかんなあかんということがある。
 ルサンチマンの復讐心はあまり思わなかったが、日常生活のまな板、その中に弱者の怒りや憎悪が溜まるということで良かったと思います。もっと哲学的に、サルトルとかハイデッカーの人間の実存性は、闇の深淵という、その上に存立している。
 私はその論拠と同列に置いてあると思ったことと、上五のまな板の窪み、それは常道であると思うが、それを下五のルサンチマンの詩が消していて、人間の生死観というものがあっていいと思った。ルサンチマンの根本になる理屈というものは、創作者が仮託して表現したらいい。
 だけどある意味では、揶揄文芸の巧緻さと同時に狡さがあるのではないか。自分のもっているものをルサンチマンに展開される論理の中に、それに自分を仮託したと言う巧緻さと狡猾さとかが交錯して、悪いのではなしに良いという感じがしました。
 
(俊介) まな板というのを、あばら骨とは誰も思わなかったですかね。
 
(洋) 言わなかっただけで、それも思いました。
 
(繁夫) 言われてみたらそうですね。痩せて肋骨で、弱者としての表現をしたというのもありますね。
 
(洋) 決定的なことは、怨念ではなくルサンチマン癒しを取るというタイトルをつけてなるほどと。僕はいい句を作られたと思います。
 
(作者) 去年の松山の研修句会では、点数が全然入らなかったので、まさかこんなに入るとは思ってもいませんでした。自分としては、憎しみを込めた包丁の刻み音みたいなものが最初にあって、ルサンチマンの詩は後からついてきたような感じです。
 火宅の人とか、そんな男の視線から見て、家庭を壊しているということはないけれど、家庭の中のしがらみといったものを込めて作りました。
 女の人からみた癒しみたいなものがあったりするんでしょうかね。自分から見て憎しみを込めて、想像で作ったところがある。洋さんや寿界さんの意見を聞いて、作った本人がそうだなと納得している。

円空のほそき眼差し船を焼く 久保田寿界
※繁夫 ※真理子 ・和子 ・かおり(繁夫) 円空と言う言葉は、川柳でも取り上げられていますが、円空は各地を遍歴している荒削りの仏像を刻む僧ですね。下五の船を焼くということ、船には日常の人間の食うための生活があって、港を出たり入ったりする。船が着くことは出ることでもあるし、船というのは器とか柩ともいわれている。そういうことで、ここでの船を焼くの意味にはたと困った訳です。
 ところが、上五には温かみのある音感のある仏像という慈愛を、下五に船を焼くという能動的、行動的なものを置いている。そこに私の心の奥で喚起するものがあったということです。人間の日常を生きていくための醜悪、それが円空の荒削りの仏像を見た時に、人間の愚かしさを嘲笑しているような感じがした。
 これは、アバンギャルドに近い。アバンギャルドの句を理解するためには、漠然とした詩的空間の中に、何らかの詩というものを感知したらいいという鑑賞の仕方もある。アバンギャルドの作品は記述をしない。それはそれとして、そういうような理解の仕方がある。
 そこで僕は仏の慈愛と人間的な行動を対峙させて、その中で答えを出したということです。また、墨作二郎氏の句「鶴を折るひとりひとりを処刑する」に似ていると思った。鶴を折るのは祈りで人間味が出ていて、そうしながら、ひとりひとりを処刑する。この句も円空の慈愛ある眼差しと船を焼くということ。人間というのはそういうことをする。それを考えると構成が非常に良かったと思いました。
 
(夫美子) 内田真理子さんが、秀句に採られていますので、選評を紹介します。
 
(真理子) 円空仏は素朴な木彫り仏で、全国の寺に残されていると言う。末寺の、朽ちかけた木仏と作者の間に流れる静謐な時間。そのやさしい前半とうって変っての「船を焼く」という強い言葉。船によって運ばれる運命を、自ら断ちきる「船を焼く」という表現。どこへも行かず、ここで生きることを円空仏のまなざしに決断した作者の凛とした思いを感じた。 
 一瞬、「船」ではなく「舟」のほうがよかったのではないか、と思うも、小舟の弱々しさではなく、安定したもの、退路を断ちきって前を向く姿勢は、やはり船でなければならないと思った。「伝説によると一五○○年代にメキシコを征服したコルテスは、メキシコに上陸したとき、それまで乗ってきた船を焼くよう部下に命じたという。
 一切の退路を断つことによって全員に前に進むしかないと決意させるためだったとされる。」この「コルテスの船を焼く」がモチーフにあったか、と感じた。
 
(和子) 皆さんが言われたように、円空仏の優しさに対して船を焼くと言い切ったところの強さ、覚悟を決めて物事にあたるという作者の意気込みを感じていただきました。
 
(かおり) ほとんど皆さんが言い尽くされたように思います。円空仏の慈愛、ほそき眼差しで戒めのようなものを感じて、船を焼くで、自ら退路を断つという行動に出る決意というようなものを感じて、上手な句だと思っていただきました。
 
(作者) 僕の思っている以上に素晴らしいことを言っていただいたので何も言うことはありません。東北で震災がありましたね。それから5ヶ月か6ヶ月の時に東北を回ったんです。その時に出来た句を手帳に書いていたんです。
 さっきどなたかが仰っていたが、船は小さい舟の方が良かったと思ったんですが、船を本当に焼いている所を見たんです。家も皆流されて、船がまだ何艘か陸に上がっていて、家族の人達だと思うんですが、花束を船に乗せて泣きながら船を焼いている光景に遇ったんです。
 その光景をじっと見ていて、私も涙をもらったんですが、その時に可愛い女の子が仏像みたいなものを持っていて、それが円空と重なってきました。そういうところで、この句が生まれたということだけです。
 
(俊介) 「船燒き捨てし/船長は/泳ぐかな(高柳重信)」という句を思い出し、僕には少し既視感があったんです。でも、今お話を聞きましたらリアリティーがあってよかったと思います。
 
(繁夫) 船を焼くはその通りやったんやね。現実に見た今の説明を聞いたら、アバンギャルドは失礼ですよね。
 
(作者) いやいいんです。私自身、それはその通りだけれど心の二重性があるんです。今言われたように、そっちにも重なっているんです。それはそれでいいです。

水や地にくちづけをする姉の既視 清水かおり
※万貴 ※雅子 ※俊介(万貴) すごく深い句だと思いました。既視というと、既視感、デジャビュですね。実際は見てないけれど、見たような気持ちで、水や地というものにくちづけをするということなので、そこに近しいものを感じている。でも今は離れている。この句を見た時に、今の津波や天災があって、人間が水や地から遠く離れた生活をしていても、深いところは繋がっていることを思って、素晴らしい句だと思いました。
 
(雅子) 万貴さんが仰ったように、この句を読んだときに繋がりを感じました。天地創造で神様が天と地を作ったという壮大なイメージではなくて、水とか地とか静かな生命の繋がりを感じさせるような、神秘的な句だと思いました。
 姉の既視というのは、どういうことかと、どうして親子ではなく姉なのかと思った時に、親子だと血の繋がりが強すぎる。横の繋がりとして姉、兄弟として姉、命を育むものとして、女性の姉が出てきたのかと思いました。水と地と姉と言う横の繋がり、例えば始めて見る風景でも何か既視感があるのは、すべて繋がっているから。
 始めて見た景色に対しても、新しいなつかしさとか、なつかしい新しさを感じさせる句で、所謂、神様が創った天地というより、新しい命の繋がりの考え方が一句にぎゅっと込められているのは素晴らしいと思いました。この句の凄さは多分いろいろなイメージを読み手が、それぞれに広げたり、深めたり出来るからだと思いましたので、それで秀句とさせていただきました。
 
(夫美子) 採られなかった方で。
 
(和女) 私は句を選ぶ時に、感動と共感って思うんです。感動する句をチェックして頂いていますが、まだ感動に到らなかったという気がします。
 
(俊介) この句は、水や地にくちづけですから、冷たい触感がありまして、それが魅力的だと思います。福島真澄さんが姉の句をよく作っていました。彼女は長女で姉がいないのですが、情景の中に具体的な人物像を登場させる訳です。
 この句も同じような使い方かと思いながら読ませていただきました。一人の女性像が鮮明になってくるんですが、そこに、既視という時間軸を与えたので、情感を複雑にしているという感じがいたしました。それで秀句にしました。
 
(作者) 多分、感想を言って頂くのにも、言いにくい句ではないかと思いながら提出しました。先ほど読んでいただいたように、いろいろな広がりのことは意識しました。普遍的なことも意識しました。くちづけをするというのは、感謝の気持ちみたいなものも含めて書きました。
 川柳を書くときに、リアルなところから書くのと、幻想的なものを心の中に置いて、それと自分の中の真実の気持ちが交わる部分を、一生懸命に言葉にするという作り方を、若いときからすることがありました。
 姉の既視というのが、姉の中の既視、その姉を見ている自分の中の既視というような、そういう重層的な見方をしていただければうれしいと思いながら出しました。

たてがみがなびかぬままに父のジオラマ山崎夫美子
※かおり・靖 ・りつ子 ・俊介(かおり) 私はこの句を読んだときに、上手い方だなとまず思いました。たてがみと読んだ時にライオンを思い浮かべたんですが、考えるとたてがみをもっているものはたくさんいる訳で、疾走する馬とか、そういうのを思い浮かべた人もいるんじゃないかと考えると、どんどんこの句の情景みたいなものが変わっていきます。
 何を想像するかによって。たてがみと父とが、少し近すぎるという難点はあると思ったんです。でも、逆に父性の普遍性というものを上手に切り出しているというか、特に、なびかぬままにというふうに、生きていく現実の世界の一人の人生の切なさというのが、なびかぬに言い尽くされているのではないかと思っていただきました。ジオラマは縮図と考えましたので、特に句姿が非常に美しいと思いました。
 
(靖) この句、非常に良かったです。哀愁を帯びたいい句だと思いました。同時にかおりさんが言われたように、上手い表現だなと感心しました。ジオラマという語が句に立体感をもたせている。平面的でなく、立体性を見ているという、そのあたりが非常に良かったです。
 
(りつ子) かおりさんはライオンだったんですね。私は馬でした。たてがみというのは、男性の男らしさや厳しさということが思い浮かぶんですけれど、作者のお父さんは真っ直ぐな性格の人だったのではないかと想像します。
 真っ直ぐなだけに、現実の世界ではなかなか思い通りに生きていけないのが、真っ直ぐな人の生き方だと思うんです。いろいろなことを人生に思い描いていきながら、その通りにいかなかったお父さんを、ずっと見続けた作者のお父さんへのあたたかい眼差し、慈愛の思いが作品に表れていました。
 
(夫美子) 採られなかった竹生さん、ご意見ありませんか。  
(竹生) 私もチェックしていない句じゃないんですが、実をいうと、これに近いような句を前に思索したことがありました。上手く出来なかったんですが、それに対するジェラシーみたいなものがあって採らなかったんです。批評にならない批評で申し訳ないです。
 
(俊介) ジオラマは模型みたいなものですね。父のたてがみがなびかないと受取れば、そこに寂しさがあるんでしょうけど、私はジオラマのたてがみがなびかぬという、見方が寂しさが抑制されて面白いのではと思っています。ジオラマという言葉の発見がこの句を面白くしたし、奥行きを深くしたのではないかと思います。
 
(作者) 正直言ってジオラマの面白さがよく分かっていません。幾つかのジオラマを見たことがあるのですが、その良さを理解しないまま今に至っています。そのイメージがあって、馬のたてがみはなびくものと思っていましたが、ジオラマだとどうなるんだろう。
 それらしくなびかせても、たてがみの長さや輝きや風の向きを表現は出来ないだろうなと思いました。女性はあまりこういうものに夢中になりませんが、男性、とくに父という存在の人にはそのようなイメージが私の中にあります。
 人生がままにならない厳しい時代に、社会で行きぬくための癒しとしてのジオラマは、どんな形でそこにあるのかと、そんなことを考えて作った句です。
〈テープ起こし:山崎夫美子〉
 まだまだ続きます。
2014.6.1

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