新思潮No.126 2014年5月号⑤
-神戸研修句会(2013年11月23日) 3―  (作者未知の時点で)
   ※秀句推薦者  ・佳作推薦者
コスモスの駅で戦車に乗りかえる 佐藤 純一
※和代 ・宣子 ・大破 ・典子 ・竹夫 ・未知 (和代) この句を読んだときに、ローカル線ののどかな小さな駅で、コスモスが揺れているというのをパッと思ったんですが、そのあとに戦車という言葉があって、コスモスと戦車のギャップにハッとさせられました。
 乗りかえるというのだから、車で家からやってきて、これから乗るのは戦車。電車であっても仕事に行くための戦闘の車とか、逆にコスモスの駅で降りて、何かバスにでも乗るのかも知れないなどと、空想がふくらみました。例えば、彼女の家にお嫁さんにもらうために親御さんに会いに行くという戦闘状態かもと、いろいろな想像ができる句だと思います。
 
(宣子) コスモスは秩序と調和をもつ宇宙という捉え方をし、その後から綺麗なコスモスの花が浮びました。この世の中に自分はこれでいいのかと思っている時、ネガティブになった時など、もう一度自分を見直すために、コスモスがたくさん咲いているあたたかい駅、交わりがあるところで乗りかえる。
 この戦車で自信を取り戻したように思えました。今までやってきたことに対して、自分を認めてくれるあたたかい人から、これでいいと言われているみたいで、何かうれしく元気が出る句です。コスモス、駅、戦車の三つの言葉から想像力がふくらんで、最初見た時に暫く目が話せなかった作品です。
 
(大破) この句を読んで、おそらく新思潮の人は採らんだろうと予想を立てました。今日ここに来て7点も入っているのに、かえって驚いております。コスモスと戦車、単純な詠み方だなあと思いました。こんな単純なもの、誰が採るだろうかと思いながら、実は私は好きでした。
 こういう見方をしやしないかと思いながら、そういう発言があったら、大いに弁護をしようという意味で点を入れました。
 
(夫美子) 採られなかった雅子さん、どうですか。
 
(雅子) 申し訳ないですが、私はあまり新鮮な感じを受けなかったんです。川柳を始めて十年ぐらいになりますが、十年前に巡り合ったらすごく驚いたと思うんです。京都の句会だけかも知れませんが、こういう言い方は、流行りの言い方ではないかと思ったんです。
 コスモスという穏やかな日常の風景から、いきなり戦車という、武器というか、アグレッシブルなものをもってくるという作り方を見かけるような気がしましたので、いい句とは思いましたが、新鮮な思いがなかったんです。
 
(未知) 私は年代的に、戦争中を若い頃に通りましたので、ローカル線のコスモスの花が咲いている駅、それと戦さの結びつき。ドキッとする自分の思い出を、揺さぶられたような気がしました。
 
(夫美子) 恭一さん、反対意見はありますか。
 
(恭一) 反対という訳ではなく、たまたま目に入らなかっただけで、読めば読むほどいい句だと思います。日常が一転して、非日常の風景になるというところですね。最近の日本の状況は、キナ臭さが段々増えてきているように思います。
 駅からいきなり戦車に乗りかえる。オスプレイなどが通過したりしていますが、そういう日常の中の非日常が入り込んでいる恐ろしさというものが感じられます。
 
(眞里子) 質問ですが、恭一さんの場合、コスモスの駅はどういう駅なんでしょうか。
 
(恭一) 無人駅でコスモスが咲いている平凡・平和な日常なものを象徴した駅で、戦車は戦争で・・・。
 
(眞紀) 戦車は戦車ですね。
 
(恭一) そうです。最初は素通りして採らなかったが、段々いいと思いました。
 
(典子) コスモスの咲いている駅は、気持ちが良くて清々しい気分になると思うんです。それが、戦車に乗りかえる意外性があって、それが面白いと思って気に入りました。戦車に乗っていくという、その先がいろいろと想像できるのがいいと思いました。
 
(竹生) 皆さん、コスモスのイメージを綺麗とか平和の象徴みたいなことをおっしゃっていたのですが、私は全く逆の取り方をしまして、秋のこの種の草花は揺れるのが多いですね。コスモスもそうですし、吾亦紅もそうですし、秋草というのはよく揺れる。この揺れる草花をもってきたのは、おそらく作者の心が相当動揺しているからと読みました。
 そうすると次の戦車に乗りかえるということにスムーズに繋がるような気がします。この戦車はおそらく危機感の象徴と読みました。戦車的なものに乗ったというのではなく、危機感を抱いてコスモスの駅で乗りかえた。そう読むと面白い句だなと思っていただきました。
 
(夫美子) ここで、作者の言葉をお聞きしたいのですが、本日ご欠席です。この会では欠席者の作品は取り上げないのですが、高得点でしたので鑑賞していただきました。

凛とひまわり 少年は変声期 山辺 和子
※靖 ※恭一 ・和代 ・眞紀 ・彩愛 (靖) 今回、自分の句を除いた81句を読ませていただいた中で、明らかにこの句は異質なものをもった句だと思いました。この句を秀句にしたのは、その異質性を評価したためです。
 少年は変声期という表現から、少年が大人になっていく入口に入った時の複雑な心、性への目覚め、孤独感とか複雑なマイナス的な悩みが出て来る時と、自分の経験で思います。そんな中にあって凜とひまわりという表現で、少年が変っていく複雑な時期に、ひまわりが凜と咲いているというのが非常に良かったです。
 
(恭一) 靖さんと同じような意見ですが、少年から大人への過渡期には変声期を迎える訳ですよね。そこには、思春期に揺れ動く少年の心があって、声変わりする不安や、あるいは声変りを果たした時の自信感によるものもあると思います。しかし、要するにまだ少年でひょろ長く、青くさい阿修羅のようなものですね。
 その体型を越えたのが、逞しく凛としたひまわりで、少年を見下ろす構図になっています。変声期を越えていくと少年もりっぱな大人になっていくという一つのストーリーがこの句にあるのではと思います。このような感覚で秀吟に採りました。
 
(和代) 随分独断的な受け止め方ですが、少年は変声期、というところで、昔観た映画を思い出しました。ウィーン少年合唱団の映画で、ウィーン少年合唱団は変声期になると退団するんですが、合唱団で活躍していた主人公の少年が、ある日高い声が出なくなってショックを受ける映画です。
 凜とひまわり、から、そのコーラスをしている男の子のハツラツとした姿を、後半の変声期で、退団を迫られる少年を思いました。
 
(夫美子) それぞれの受け止め方で広がっていく句だとは思うのですが、あまりに説明がないというか、舌足らず的な感じに私自身は思えたのです。採られなかった方でご意見を。
 
(りつ子) そのまま読んでもいい句かなと思いました。経験から来ているという和代さんの意見もなるほどと思いました。私は、我が子であり孫かも知れませんが、その成長していく姿が凛としているひまわり。今のひまわりは小柄になって、可愛らしくて凜とした感じはしないですが、昔のひまわりは大きくて凜としていました。
 それに子や孫の成長が重なって出来た句という気がしました。とても微笑ましい作品と思いました。
 
(夫美子) で、採られなかったんですね。(笑)採られなかった竹生さんどうでしょう。
 
(竹生) あまりにもありきたりだなという感じがしたのと、凛とひまわり、少年は変声期と二つに分けていますが、こういう構成でなくてもいいんじゃないかという気がしました。
 
(眞里子) 靖さんは特別な異質性があって惹かれたとおっしゃいましたが、異質性とはどういうことなんでしょうか。
 
(靖) 異質性ですが、今回81句を読んでいく中で、僕にとっては重いことを言っているような、言葉に重さがある句が多いと思いました。その中で、この句は明らかに言葉そのものですが、凛とした雰囲気と清々しい感じを僕自身は持ち、他との違いを思いました。
 
(彩愛) 立ち止まらずにはいられない句でした。見ようによっては難解でもあると思いましたが、イメージで受け取れば、すーっと心に入ってきました。このような感覚で受け取るべきものは、これからの川柳でも多く詠われると思います。ひまわりと少年がぴったり合っているので、この作品はとても成功していると私は思います。
 
(眞紀) この作品は折り目正しく、饒舌性がないです。悲しく美しい回帰性の作品です。それと、この凜という言葉を捉えた瞬間に、この作者は少年変声期に繋がったのではないかなと思いました。活字に無駄のないことが私は嬉しかったです。
 
(作者) たくさん点を入れて頂いてありがとうございました。私にしましたら、冒険句なんです。異質性といわれましたが、それはおっしゃるとおりで、自分でもそれは思っています。最近、まだ低学年の孫の世話をすることが多くて、それで参観に行ったりするんですが、6年生ぐらいになると大人顔負けの体格の子を見ます。
 最近のひまわりを見ていると、弱々しいひまわりが多くて残念に思っていたところ、茎の太い大きいひまわりに出会ったんです。その時に、少年とひまわりが結びついて、変声期を迎える少年ってこうかなと思ってこの句が生まれました。皆様のご意見を参考にして、これからもちょっと変わった句を詠んでいきたいと思っています。

蔓ひけば五色の迷い野葡萄(へびぶどう) 杉山 夕祈
・一葉 ・りつ子 ・和子 ・かおり ・嬉久子 (一葉) 蔓というのは、何かにまとわり付いて伸び、立ち上がっていくというイメージがありますが、五色ほどの悩みが蔓にもあったんだろうと納得できます。人間もいろいろな人と出会い、別れ、又出会って、つるんだり、別れたりしていきますけれど、そこに人間的な悩みがあるんですね。
 蔓も悩んでいるのかなと思いながら、五色の悩みを乗り越えて伸びていく蔓ですから、強いイメージがありました。それに重なった野葡萄は、食べられないけれど、実をつけた葡萄ですよね。
 鳥とかは食べるんですかね。その意味では、生き物の実になっていくわけで、生命を繋いでいく、実をつけていくというふうに受取れ、その力強さでいただきました。
 
(夫美子) この句を採られている嬉久子さんは本日ご欠席ですが、選評を典子さんが言付かってくださってますので伝えていただきます。
 
(嬉久子) 一句のもつ妖艶な妖しさ、つらつらと口をつく魅力、ルビの効果、むらさき色の琴の音がするようでイカれてしまいました。表現の裏話を聞きたく思います。
 
(りつ子) 私も自然が大好きで、特に秋が好きで、山に入り込んで行くんですけれど、野葡萄は秋景色の中で可愛らしいですね。この作者は、ただ、いいなと捉えないで、迷いと取ったものと思います。
 自分の迷いだと思うんですけれど、口に出来ない想い、叶わぬ想いとか、その想いをどう整理したらいいのだろうかと、いろいろなことを考えながら、作った句かと思うんです。五色の野葡萄の中で自分自身も迷ってという、そんなことを考えさせられた句でした。
 
(和子) 五色の迷いと言うところは、葡萄が熟れていく度に、色の変化がある訳ですから、変化の度に迷いが深くなっていくと捉えたんです。きれいな紫色から、いろいろな色彩を想像しました。すごく惹かれる句なのでいただきました。
 
(かおり) 蔓と迷いというのに感ずるところはありました。蛇苺はよく使いますけれど、野葡萄というのは、私は新しく感じました。どういうものか頭に浮かんだんですが、詳しくは分からなかったので、ネットで調べました。花言葉は人間愛で、蔓ひけばとピッタリだと感心して見ていたんです。また、花弁が五つで、五色というのにもぴったりだと思って、野葡萄をもってきたところに、この作者の工夫が見られたと思っていただきました。
 
(作者) 信州の田舎にいたものですから、女学校の頃に、野道を歩いていると野葡萄があるんです。それは、黒に近い紫から、瑠璃色から赤、ピンクと色が変って青まで、色が本当に綺麗で大好きなんです。この句を作ったのは、平凡な日常の道を歩いていて、たまたま誘われるように蔓を引いてしまった。
 それは迷いの始まりかも知れないけれど、じゃぁ、引かなければ良かったかと思った時に、やはり迷いの中にあっても、蔓を引いて迷いも楽しみたいという思いがありました。

喪いしものかさね着て歩みたり 平山 繁夫
※宣子 ※洋 ・和子 (宣子) 句を選ぶとき、言葉と言葉の繋がりを捉えて、自分の中に上手く溶け込み、噛み砕けてきたものを選んでいます。それで秀句に選んだのがこの句です。長い間生きていく中には、形のあるものも無いものもたくさん失っていて、そこに喪いしという言葉を使っていることに共感しました。
 喪ったけれど、自分には何かしらの思いが何処かにあって、辛いとか悔しいとかを嘆くのではなく生きていく糧にする。かさね着てとありますので、着替えるのではなく、一つひとつ心に足していく。そして、後悔はしないで一歩でも二歩でも、歩まんではなく、歩みたりとしているところに共感しましたし、そこに強い意志を感じました。
 
(洋) 俳句にしても、川柳にしても、昔から避けられない常套的な句で、僕の身辺にこういう句はずっとある。ポイントとしては、下五で、歩みけりではなく、歩みたりとした言葉がこの句を支えた。ただそれだけでこれを即、秀句にしました。「たり」が上手い。
 
(夫美子) 未知さんは俳句をされていますので、この下五についてはどうでしょうか。
 
(未知) 歩みけりとたりの違いは、もう少し反芻しないと分からないです。
 
(和子) 喪いしものというのは喪だけでなく、私は全体的に喪ったと採ったんです。自分をかさね合わせて見ると、過ごしてきたものを遠く愛おしく思って、忘れないでずっと歩んできていると捉えた。自分とかさね合わせてこの句がぴったりだと思っていただきました。
 
(作者) その通りです。喪いしものというのは老境。若さも体も失って、肉親も喪っていくような、すべての喪失の時期であると思うんです。そして、かさね着るというのは、そうした思い出や追憶、それぞれの後悔をかさねて歩みたりということです。
 重たい喪失したものを背に負いながら、歩いていけなければならないのが歩みたりで、歩みけりは自然に生きているから、歩まないとしょうがないというところです。作者としても喪失の辛さをひしひしと感じながら、せめて終末には納得した人生を迎えたい。死というものを納得しなかったら、死への恐怖は出て来ると思う。この世に未練を残さない、納得した終焉を迎えたいというそんな考えで作りました。

朝顔や母の鈴止むぶらんこ垂直 西条 眞紀
※和女 ・靖 ・宣子 (和女) 私事なんですが、この会の選句の時期に身内の者を亡くしまして、作っている句も精神的に上向きではなく、選んだ句も亡くなるとか失うとかに、自分の気持ちがあったんです。先ほど私どもの主幹(繁夫)が、短詩は片言の文学で、鑑賞者が寄っていかないといけないと申しましたが、やはり、母の鈴止むということは、作者のお母様の介護か何かで鈴をつけられていたのではないかと想像した訳です。
 その鈴が止むということは、お母様が病床に伏せられたとか、亡くなられたとかで動きがない。そこでブランコ垂直と下五に配置しているのですけれど、それが私の叔母を亡くした時の気持ちと重なり秀句にいただきました。
 
(靖) この句、素晴らしい句です。秀句にしてもおかしくない句だったんです。鈴止むの鈴の音というのは、僕にとっては横の広がりなんです。イメージとしてね。そのお母様の鈴の音が止んだ。僕の中のイメージとしてはお亡くなりになった、永遠に止まったと捉えました。何故かというとブランコ垂直という表現から。
 この表現で、鈴の音が止んだとたんに、今度は縦の垂直に切っている。途絶えている。これはおそらく鈴は二度と鳴ることはないのかと。つまり、横の広がりと縦の途絶える表現ですね。ブランコ垂直という表現自体の意味はとれなかったんですが、鈴の音が止んだ途端に、垂直の縦の線で断ち切られた永遠の別れと言うイメージを感じました。
 
(宣子) この朝顔は気になった句でした。言葉のもつ美しさと文章のあたたかさが感じられました。お母さんは亡くなられたと思うんですが、母の鈴はお母さんが鳴らす鈴ではなくて、いろいろな音色を出す鈴から母を連想しました。
 私の母、それぞれの母、やさしいあたたかい音色、時には厳しくて、中に秘めた内面的なものも感じられました。でも、朝顔は何事もなく、揺れていたブランコも止まってしまっている。縦のつながりと靖さんは言われたけれど、私は遠い昔のように思い出しました。朝顔は何もなかったように咲いて静寂の世界が感じられます。
 
(夫美子) 採られなかった方で、眞里子さんどうでしょう。
 
(眞里子) 皆さんの話を聞きながら、とてもとても納得しながら、朝顔や・・でつるべ取られてじゃないですが、その句がいつもぶら下がっていました。確かに母の鈴止むということからすると、下五にブランコ垂直というのは、次の言葉が出てこないくらいドキッとする出来事だったのに、朝顔やのそのあとに続く自分の雑念にかき消されました。落ち着きのない日々を反省しています。
 
(作者) つい最近母を亡くしました。自句集を出した後、母の病状が悪化して実家通いが続きました。ちょうどこの3句を出す時にこの句が出来ました。自分では良いとか悪いとかじゃなく、自己浄化で作った作品です。

ブリキの指で千の蝶を飛ばしては 姫乃 彩愛
・雅子 ・竹夫 ・夫美子 (雅子) 今回の81句から選ぶ時に、この場で説明しにくい句を選ぼうと思いました。説明しにくいということは、多分自由に想像していいというか、イメージをふくらませて良いということではないかと考えました。この句を読んだ時、映像的に美しいなと思ったことと、この作者は何かに喩えているのではないかと思いました。
 ブリキの指でというところは、もどかしさ、そんなものを感じさせましたし、千の蝶は、思いの丈、自分の思い通りにならない、夢が叶わなくてちりぢりになったような。飛ばしてはという止め方も思わせぶりですが、そこの微妙な何と表現していいか分からない気持ちを、映像美として書かれていていい句だと思いました。
 
(竹生) 最初、ブリキの指と言う言葉にドキリとしたんですが、ブリキというのはブリキの玩具、今はあまりないですが昔はいっぱいあって、私などは玩具というとブリキ製でした。そのブリキの人形の指と考えて、千の蝶を飛ばしてはと上手く続くのではないかと。
 先ほど雅子さんが、飛ばしてはが思わせぶりとおっしゃったが、これはそのほうがイメージは広がっていいんじゃないかと思いました。どちらかというと、レトロな感じのある句と思ったんですが、ひょっとするとそうではないかも知れない。でも美しい夢と遊びの句だと思いました。
 
(夫美子) ブリキの指という表現が怖くも感じますが、硬くて触れれば傷ついてしまいそうなブリキと、千もの蝶を題材にもってきたことが大胆でおもしろいと思いました。ひょっとするとブリキの指は子育て真っ最中の母親ではないかとも考えました。
 子のために蝶をいくら飛ばしても、血の通った優しい母の指でないと子どもに響かない。現代は虐待が問題になっていますが、そんな母親のどうしようもない気持ちを代弁したような句だと思いました。
 
(作者) 夫美子さんがおっしゃたように、子育て真っ盛りの母です。私の思いではブリキの指と言うのは抑圧で、千の蝶は解放です。解放されたいという願望から生まれた作品でした。さっき母(眞紀)が自己浄化という言葉を使いましたが、私も自己浄化したくて作った句です。

2014.7.10

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