新思潮No.127 2014年7月号②
夏来れば夏蹌踉(そうろう)の北の灘人 山内洋
 灘地方は古くから工業が盛んで、特に酒造業は〝灘の生一本〟として全国的に有名だ。その灘の北部の住人と想われる「北の灘人」が、ギラギラした炎天下、足元をふらつかせながら歩いているのだ。疲れ切った体の上に、暑さや飲酒が重なり、そう云う状況に追い込まれたのであろう。
 男の悲哀が滲み出ているが、作者はそれを否定的には捉えず、肯定的に人生詠嘆の句として、詩的昇華させている。使い勝手の悪い重厚な言葉を用いながら、朗朗と詠む様は、山内洋さんの表現者としての特異な才であるに違いない。〈細川不凍〉
赤い月ぶらり告げてはならぬこと 吉田州花
 州花さんの作品は、いつも成熟しきった、安心して読める印象がある。その中でも、時代に合った新しい作品を創作出来る貴重な作家である。書く行為に先立って実在するおのれの感性を言葉とどう融合させるかを考えている個性溢れる作家だ。〈姫乃彩愛〉
時はカサノヴァ深追いはせぬつもり 月野しずく
 時というものはカサノヴァのようだという喩えが意表をつく作品だ。女たらしゆえに深追いしない、同様に、時を深追いしない、というところに諦観が感じられよう。もっともカサノヴァやドンファンが女性にどのように映るかを想像できないのは、私の理解の限界であろうか。カサノヴァなどの新しい言葉を大胆に使いこなす作業はいつも大切だ。〈岡田俊介〉
さくらさくら祈りつづけている桜 松田ていこ
緋をそめて揺れるさくらを身のうちに 松田ていこ
 ていこさんの桜は、手放しに「春だ」と喜べるものでないのがわかる。作者の桜には祈りがあるのだ。その祈りは死への黙祷へと繋がっている。緋とは、目の覚めるような鮮やかな赤色だ。それをそれ以上に染めてまで桜を身の内に置く作者の心情は計り知れない。
 人々が綺麗と感嘆の声をあげる桜並木から激しく泣く声が聞こえるほど桜は辛い記憶なのだろうか。ていこさんの作品は、そこはかとない言葉の魅力をもって読者に寄り添ってくる。飾らないその言葉が美しく呼吸しているのです。〈姫乃彩愛〉
紫陽花が翻訳をする雨の詩 西田雅子
 紫陽花が翻訳するという句語の発見がすばらしい清浄感があふれる。雅子さんは、他の人が気が付かない様な発想を思いつく貴重な作家である。このような作品は、負を吐く作品より難解であるのかとも思う。〈姫乃彩愛〉
一切が空とは何ぞ花の寺 濱田玲郎
 あらゆる現象や存在には実体がなく、空(くう)であるという一切皆空の仏語を用いた作品。花の寺の花を見ているうちに、一切皆空の言葉がよぎったのであろう。普通の人にはわかりにくい考え方で、この花さえも空なのかと問いかけているのだ。
 花々を実体のない空と思えば、その光景までも変わって見えてくる。一連の作品で、作者には珍しく花を詠んでいるが、いずれも沈んだ色の花を創り出している。花々が独特の色彩感で仕上がっている点に、却って新鮮な感じを受ける。〈岡田俊介〉
目のふちにいつもさかせる野のすみれ 福田文音
 着想に独特のものをもつ作者だが、この句の〝目のふちに〟の表現に、オリジナリティがある。この言葉で日常的に野のすみれに親しむ作者の佇まいが見えてくるようだ。もちろん、これは作品の背景であり、視野にすみれを絶やさないという、自然に近い位置で生きる女性のポートレートが主役になっている。〈岡田俊介〉
伝説のほころび埋めてきたさくら 山崎夫美子
自叙伝にほこほこの芋蒸しあがる 佐藤純一
柊の棘凛としてなお無明 御供田あい子
やわらかに 人の終りの しばらくは 梅村暦郎
 
雪椿痛みは雪の掌の上に 小林ひろ子
手足より土筆頭の中はさくら 矢本大雪
あの方も独りだったか川遊び みとせりつ子
水仙の黄みどり語り切れずして 松井文子
紫の信号を待つ白い杖 福井陽雪
 
冬ごろも脱いで蚕の糸を解く 瀧澤良子
野すみれの淡きひかりを身に置きぬ 山辺和子
耳鳴りや扉つぎつぎ現れる 鮎貝竹生
凍えた白ね 百合の予感 姫乃彩愛
 
     ―沈丁花―    西郷かの女
   卯月花今年も愛す人の来て
   ほろ苦い握手もあった記念の木
   かおよぐさ水辺に浮かぶ人ゆらゆら
   玄関で少したじろぐ沈丁花
   薪能 灯火の中の人おぼろ
   満月の日に訪ねこよ花持って
   利休切腹 泪と書いた茶杓の行方は
2014.8.17

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