新思潮No.142 2017年1月号より①
直立歩行するあらたまの一行詩新井 笑葉
人間を他の動物から区別する最大の特徴は「直立歩行」である。これを人間としての肉 体的覚醒とすれば、精神的覚醒は言葉を使い始めたことだ。この句には「直立歩行」に習 熟していた原人から、「一行詩」の川柳にいそしむ私達が生きる現代までの、およそ一六 〇万年の時間が内蔵されている。そのスケールの大きさから、ざっくりとした表現になり そうなところを、「あらたまの」が知的にも感覚的にも妙なるバランスを保っていて、素 晴らしい措辞になっている。新年を迎え、作者は荒玉の一行詩に磨きをかけるのだ。読む ほどに作者の精気が心地好く伝わってくる句だ。〈細川不凍〉
目を閉じてごらん鈴の音やってくる古俣 麻子
母と幼ない子供の、クリスマスの夜の光景が浮かぶ。表現が軽やかで開けっ広げのせい か、一読で僕の心の中に飛び込んできた。気に入ったからだ。僕も、「目を閉じてごらん 」と言われてみたかった。無論、子供のときに。私達川柳表現者は優れた句を創ろうと、 懸命に工夫を重ねるが、この句は〝工夫をしないことが工夫〟を実証してみせている。そ れとは逆に、〈雲の中かくれんぼする羽根布団〉はよく工夫された句だ。子供は間違いな くあたたかい夢(お母さんの夢)を見るに違いない。〈細川不凍〉
逝く秋へこぼれしものを呼びやまぬ松田ていこ
上質で清潔なリリシズムに特長を持つていこ作品である。「こぼれしもの」は、この世 を旅立った人達、恩師というべき西郷かの女さん、片柳哲郎先生そして、何よりも大事な 母上を指すのだろう。冷たい秋風にかき消されると分かっていても、作者はこの人達の名 を呼ばずにはいられないのだ。〈細川不凍〉
寒波到来コクトーの耳たたまねば 澤野優美子
この耳は、ジャン・コクトーの耳の詩の、海の響をなつかしむ貝がらの〝耳〟である。 作者自身がその貝がらの耳、多感な耳をもつというのだ。寒波到来とともに、あたかも冬 眠に入るかのようにその耳をたたみ、あとは詩の聞こえぬ冬の耳になるのだろう。自身の 耳をコクトーの耳に喩えた自画像が面白く、異質の味わいが読後に残る作品だ。〈岡田俊介〉
壁よりも更にさみしくドアがある 寺田  靖
さみしい壁は孤独の匂いのする壁だ。閉塞感を象徴する壁なのだ。そうした壁を意識し た経験は誰もがもっているにちがいない。哀しい壁であり、何とか抜け出したい状況を生 む壁なのだ。その閉ざされた状況から抜け出るべき〝ドア〟さえもさみしいものというか ら、〝ドア〟の先に広がるべき光景が見えないのであろうか。その〝ドア〟から出るしか ないのだが・・・。現代社会に増えているにちがいない〝壁〟と〝ドア〟である。〈岡田俊介〉
サウスポー浮き世へ鉈を振り上げる重田 和子
〝浮き世へ鉈〟は怒りの表白だろうが、この振り上げられた鉈の行方も闇の中の出来事 なのだ。怒る、鎮まるの繰り返しである人生のこころの奥底は、なかなか覗くことはでき ないが、この風景もその奥底の一端かもしれない。作品の構成上は、サウスポーの語が程 よい軽味を与えているようだ。〈岡田俊介〉
カエサルの貌立ち上がる秋夜長 杉山夕祈
豊穣の大地伝わりくるホルン  松井文子
コスモスの森に棲んでいた陽ざし岩崎眞里子
箸置きが乱れることも妻の輪郭 伊藤寿子
りんどうを描く秋の日の蒼の一枚 吉田 浪
相槌が欲しい埴輪と昏れ惑う山崎夫美子
草もみじ日和見主義は悪くない吉田州花
青空を酌もうと梯子六十段 吉見恵子
握りしむ雨粒ひと粒 ちさき秋西条眞紀
水の澄むころに葡萄の一つぶを岡田俊介
秋の水他人(ひと)も私もやさしいね 細谷美州子
初日の出島は無言の雪に炎ゆ村上秋善
2017.1.25

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