新思潮No.151 2018年7月号より①
水切りの切れ具合で終えるいちにち細川 不凍
水切りは子供の頃、川辺でよくやった遊びである。丸く平たい小石を下手投げで川面に投げ、ピシピシピシと石が遠くまで水を切って飛んでゆく様を楽しむ遊びである。それは一人でやっていても詰まらなく、水切りの回数と距離を人と競ってこそ、得意満面になるのであった。他愛のない遊びであるが、その快感は何物にも代えがたく、水切りが得意だったと云うだけで、少年は幾許かの自信を深めたものである。きれいに水を切ってゆくその快感は大人になっても残っており、充実した仕事の満足感とつながっているものであろう。一日一日、メリハリをつけて生きている作者と重ねる。〈古谷恭一〉
桜前線 春の背骨が見えてくる山崎夫美子
テレビ画面で気象予報士が桜前線の位置情報を伝え始める頃、僕の住む北海道はまだ雪の中だ。それでも、「桜前線」という言葉の響きには、冬から春への胎動を感じさせる力強さがあって、春を心待ちにしている自分を確認することができる。「背骨」は脊椎動物の身体の支柱を成す。つまり「春の背骨」は春の最も肝要な部分を示す言葉なのだ。作者の大胆な叙法に惹かれるまま、満開の桜の景が展がってきた。〈細川不凍〉
五月には五月の音で光るカウ・ベル吉田 州花
五月は新緑に映え、牧草地も柔らかな牧草に覆われ、牛にとってはこの上ない恵みの季節である。その放牧牛の首に吊るされた大きな鈴がカウ・ベルである。ところが私は、その実物を見たことがない。わずかに映像で、ヨーロッパアルプスの広大な放牧地で放し飼いされた牛のカウ・ベルを見たことがあるのみである。カウ・ベルは牛の所在を確認するための道具であるから、そもそも日本の狭い放牧地では必要ないように思える。しかし想像だけでも、五月の生命力にあふれた大地と、そこに調和して存在する音や光、生命の営みに心和まされるものがあると思うのである。〈古谷恭一〉
花びらに雹降る午後をひもとけば 伊藤 寿子
天候の乱れは各地に雹を降らせる。氷が天から降ってくるのでは、身の隠しようもなく、大きい雹だと身の危険さえ感じるだろう。この句は、〝午後をひもとく〟という概念を導入して、あたかも未知の午後に入り込んでゆくような表現をしている。その未知の午後では、まさに花に雹が降っているのだ。〈岡田俊介〉
紫陽花の蕾閃(ひらめ)く第二案重田 和子
五月下旬ともなると紫陽花の蕾が姿を現してくる。どんな花が咲くのか判らないような点の集合だ。点が育ち、白くなって、さらに青くなる。この蕾の姿からインスピレーションを得て、複雑な第二案を思いついたものだろう。第一案はもっと素直な案に違いないのだが、第二案はやや違う視点からの案のように、変化を予感させる。〈岡田俊介〉
風の彩水の彩にも春は流るる松田ていこ
隅田川花のしらべに一日は松井 文子
鏡の中まで雨の桜がついてくる岡田 俊介
低温の夢に抱き癖ついていた古俣 麻子
墓地に風すかんぽたんぽぽはとぽっぽ鮎貝 竹生
母の日の花の笑顔と朝のモカ山辺 和子
乾かないうちに五月のフレスコ画氈受  彰
古家(ふるさと)を手放す立夏 鯉はねる月野しずく
引き継ぎは虹のふもとに着いてから佐々木彩乃
ノックする向日葵一面枯れるまで姫乃 彩愛
鏡中に土足で夕日上がり込む酒谷 愛郷
2018.7.19

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